2007年12月9日日曜日

バンビエン

 12月1日から2日に掛けてビエンチャンから北へ約150キロ離れたバンビエンという町に旅行に行ってきた。水墨画に出てくるような風景がそれなりにバックパッカーらに人気の観光地だ。ビエンチャンーバンビエン間の道端の風景は特別なものではないが、それなりに田舎の良い田園風景である。仏教圏のアジアらしく、蓮があちらこちらの池に浮かんでいた。
 肝心な目的地のバンビエンの風景はそれなりに良かったが、本当に景色が良いのは限られた場所のみで規模的にはあまり感激しなかった。夕方の風景はなかなかであった。小川に多くの橋が架かっており雰囲気を出していた。

バンビエンには本当にバックパッカーが多く、バックパッカー向けのロッジやバーが多く在った。それらのロッジやバーはレインボー・バー等といかにも何か怪しいものを吸いたいヒッピー系のバックパッカーを意識してつけられたような名前が目立った。普通のラオス風のホテルやレストラン、町並みはほとんど見られないのが残念である。もっとラオス文化を尊重した観光産業開発を町なり国なりが管理しながら行えば、こんなことにはならなかったはずなのにと拙者は思った。日本人のバックパッカーも見かけた。ともかく、欧米のバックパッカーはロックの鳴り響くバーとアメリカのコメディー番組がテレビでかかっているレストランに群がっており、長旅ご苦労さんですという皮肉な具合だった。

タートルアン祭り









 11月のある週末、ラオスの国家シンボルでもあるタートルアンにて国内最大級の祭りがあった。毎年、太陰暦12月の満月に開催されているらしい。そのクライマックス的なイベントであるロウソク行列に参加した。
 この週は町中がお祭りムードでタートルアンだけではなく、他の寺院でもいろいろな催し物が開催された。拙者はワット・シムアンのろうそく祭りにも足を運んだ。小さな舞台の上でバンドの音楽に合わせて子供が踊っていた。
 タートルアンは周囲半径1キロが通行止めになっており、周辺には移動遊園地や屋台、野外コンサート・ステージが多く設置され、物凄い人と音であった。拙者は屋台で何かの虫の幼虫のフライを買って食べてみた。カリカリに揚げてあって、フライドポテトのような感じでそう不味くはなかった。小エビのから揚げのような食感であったが、見た目はかなりグロかった。特に黒い眼が拙者には少々きつかった。また、ラーメンのようなものの屋台では、かなり冷めたスープにかなり伸びた麺が出てきたので、一口だけ食べてリタイアしてしまった。
 ビエンチャンの人口は70万人程であるのに、タートルアン付近には少なくとも10万人の人が集まっていたような気がする。
 肝心なろうそく祭りの様子は写真の通り。それほど、綺麗ということもなかった。この祭りのために全国から集まった僧侶が何かするということもなかった。花火が上がったが、かなり淋しかった。そして、何より花火の火薬の粉のようなものが眼に入って痛かった。その花火の様子はこんな感じ。
 まあ、人も多く賑わっており、ラオスらしい祭りを味わったような気がした。

2007年9月3日月曜日

ギリシア及びブルガリア旅行

転職早々、仕事でろくな成果も上げてはいないのは重々承知であったが、7日半の有給を貰い、ずっと先送りになっていたハネムーンと友人の結婚式出席を兼ねて8月9日から21日にかけてギリシアとブルガリアに旅行してきた。

拙者は小学生の頃にカレンダーでミコノス島の写真を見て以来、新婚旅行はギリシアと決めていた。だから、過去にギリシア付近に旅行する機会があっても、あえてギリシアだけは避けてきた。去年の11月に結婚した時も、新婚旅行はギリシアが乾季になるのを待ってからと言って、頑なに「新婚旅行」という位置づけの旅行を避けてきた。そういう訳で、今回の旅行は拙者にとって非常に特別なものであった。

旅行の最初の3日間はアテネで古代ギリシア時代の遺跡を中心に観光した。アクロポリスのパルテノン、古代アゴラ、ゼウスの神殿、初回近代オリンピック開催地跡、国立考古学博物館を歩いて回った。炎天下の中、毎日かなり歩いたので、足がすごく疲れたのが相当記憶に残っている。パルテノンは補強工事で近くから見ると建設機材が邪魔であったのがちょと残念であった。しかし、やはりパルテノンには1つも直線が使われていないという事実は確認できることができた。遠くから見た時に、柱や土台が直線に見えるよう、柱の中腹を膨らませたり、角の柱を他の柱より太くしたり、土台の中心を盛り上がらせたりする工夫がされているのである。そう思って近くから見ると、やはり直線ではないように見えるのである。

ちなみに、アクロポリスから離れたプニクスの丘からのアクロポリスの眺めは最高で、拙者はそこに時間をずらして2日連続で足を運んだ。

パルテノンより壮大なのが、ゼウスの神殿である。写真の通り、マジでデカイ。一本、柱が倒れたままになっているところが、またその壮大さを強調している。

ともかく、紀元前15世紀頃にここには相当の文明があったのは十分過ぎるくらい思い知らされた。全盛期にはそれは華やかだったのだろう。容易に想像がつく。そして、考古学博物間では紀元前6800年頃の遺品も展示されているのであるが、そのモダンなデザインには驚かされた。しかし、そんなせいなのかは良く分からないが、全般的にアテネは観光地化され過ぎており、商人は全く愛想がなく、態度が非常に大柄で、物価も以上に高く、土産品の値段もあり得ないほど吹っ掛けられており、腹が立ったのは拙者の身分のためであったのかも知れない。

歩きまくって疲れたアテネの滞在後はエーゲ海でゆっくり体を休めた。フェリーで約5時間掛けてミコノス島まで行った。途中でシロス島とティノス島に寄港した。ティノス島はそれなりに美しかったが、やはりミコノス島程ではなかった。途中で帆船を何艘か見た。絵になった。ミコノス島は本当におとぎ話に出てくるような島で、全ての建物が真っ白で、雨戸も青に統一されている。ちなみにガス・タンクも青に統一されていた。拙者も今回の旅行のテーマ・カラーは予め白と決めていたので、我ながら風景に良く溶け込んだのではないかと自画自賛したのは書かなくてもいいかもしれない。また、ミコノス島はゲイの集まる島としても知られており、普通のカップルよりもゲイのカップルの方が多く、拙者も一人で歩くと自意識過剰のせいか、熱い視線が気になり多少緊張した。いずれにせよ、ミコノス島は美しい島で、20年来の拙者の期待を裏切ることはなかった。
 最後に、ブルガリアではコプリフシュティッツァという片田舎の小さな町の教会で大学院の時の友人の結婚式に出席した。オーソドックス教会の結婚式なので、結婚指輪は牧師が夫婦それぞれの右薬指に通した。左手ではないところがカトリックやプロテスタントとの大きな違いだ。町は石畳の本当に古い街で、いまだに馬車が薪を積んで走っていた。町そのものが博物館のようであった。結婚式もその後の晩餐会も本当に雰囲気があって良かった。晩餐会は明け方までブルガリアの超強いハラキとかいうブランデーみたいな酒を飲み続けながら、踊りとおして続いた。翌日は相当疲れた。
 それなりに成長しつつも変わらない大学院時代の旧友との6年振りの再会も面白かった。

2007年8月6日月曜日

セポン出張

7月31日から8月3日まで地方に出張に行ってきた。行先はベトナム国境に近いサバンナケット県セポン郡である。目的は、保健衛生改善の普及方法を村落の女性組合と打ち合わせるためであった。会議には数村落の女性組合の構成員だけではなく通称「ナイバン」と呼ばれる村長も数人出席した。

ビエンチャンからセポンまでは車で移動したのであるが、道路は良く整備されていた。正確な距離は分らないが、朝8時にビエンチャンを出発し、午後4時過ぎにセポンに到着した。途中、食事のために2度程休憩をとったが、走行速度は時速100km程であったので、約600kmの道のりであったと拙者は推測する。

移動中に気がついたことは、本当にラオスは人口密度が低く、道路沿いの景色を見ていても、森と田園以外に殆ど何もないのである。たまに数件の集落を目にしたが、質素な高床式の住居で、壁は木板一枚で屋根はトタンか何かの葉で葺いているのが一般的である。ひどい時は壁がなく、ビニールシートで目隠しをしているという具合である。しかし、本当に極稀に超豪邸も目にした。パレスと言っても過言でないほどのスーパー超ゴージャス豪邸である。ラオスで一体どうしたらそんなに金が儲かるのか拙者も知りたい限りである。

昼食の際にはカムアンという町に寄った。ベトナム移民者が多数を占めている町らしいが、一応町並みはフレンチ・コロニアル・スタイルを残している。しかし、見たところ小さい町でこれといって珍しい物は目に入らなかった。

セポンにもこれといって特別変わったものはなかったが、不発弾がごろごろ転がっているのが目についた。この不発弾は150cm程もあるデカイものだ。ベトナム戦争中に米軍がばら撒いたモノに違いない。何ていったって、当時300万人しかいなかったラオスに300万トンのミサイルを投下したらしいのだから、不発弾だっていっぱい残っていて当然だ。拙者の泊ったホテルでは外壁に不発弾を使っていた。金属製だから丈夫そうではあった。(注:ラオスでは、不発弾を金属材料として売るために多くの人が地雷や不発弾を処理中に事故によって命を落としている。)

出張2日目の晩、近所の家で羊を1頭料理するということで村長や女性組合員達と一緒にお呼ばれした。ただし、羊の代金は拙者の同僚と拙者、それから女性組合の本部スタッフで支払った。羊は目の前で首を切って殺された。赤い血がゆっくり地面を染めた。羊は即死することもなくしばらく生きていた。これらの作業は全て男性が行った。女性は全員家の中でおしゃべりをしながら他の料理の準備をしていたようだ。男性陣は女性陣に椅子を用意して勧めたりもしていたが、女性陣が同席することは一晩中なかった。男性陣は外で火を熾したり、テーブルを囲んで酒を飲んだりしながら、少しずつ羊を調理して食べた。家の中にいた女性が羊を一部調理していたのか、また実際に羊の肉を食べたのかは、外で強い酒を飲まされていた拙者には分らない。

この酒なのであるが、もち米が原料のようで度数は40%にも及ぶ。薬草が入ったペットボトルにお酒は入れてあった。この家にはエスプレッソ・カップがたまたま1つあったため、ペットボトルからそのカップにお酒を注いで、男たちで回し飲みをした。もちろんショットである。拙者は6杯くらい飲んだだろうか。この他、ビールも回しのみした。

肝心の羊であるが、まず生の睾丸が目の前で輪切りにされて皿に盛られた。男達は刺身を食べるように何かのタレに漬けて食べた。拙者は遠慮した。その後、レバーと皮がまた生で皿に盛られてきた。拙者は再び遠慮した。このように、ともかくラオスでは生モノの料理が多いが、強制はされないから助かっている。(先日、拙者の家にスズメバチが巣を作った際には、門番の兄ちゃんが簡単に巣を除去し、中にいた幼虫をおいしそうに生きたまま食べていた。この時も拙者に勧めてきたが、拙者は遠慮しておいた。健康には良さそうだった。これまで、ラオスで拙者は川エビを生きたまま食っただけである。)

この後、やっと肉が焼かれて出てきた。しかし腸も一緒に焼かれて出てきた。肉は素直においしかった。腸はにがかった。キャベツや他の生の草みたいのと一緒に肉は食べた。もちろん、主食のもち米も食べた。すべて素手で食べたが、敢えてその方が衛生的かもしれないと思ったりもした。野原で立ちションする方が汚い駅の公衆トイレで小便するより衛生的と感じるのとちょっと似ている。

翌日の会議には、村長は1時間以上遅れて登場した。まだ酔っ払っているようだった。大きな声で「サバイディー!」(こんにちは)と言って入ってきて、着席するや否や早速挙手し、何やら質問をしはじめた。他の出席者は皆笑いをこらえきれず噴き出していた。そんな感じで、会議は終了した。拙者は言葉が通じないので、ただ観察しているだけであった。

この地域の住民は少数民族が殆どであり、クメール語系の言葉を母語としているらしい。文字は存在しないらしい。しかし、会議に出席した人の多くはラオス語もベトナム語もできるらしい。しかし、皆非常に背が低く(平均で150cm以下ではないだろうか。女性では130cmくらいの人も何人かいた)痩せており、栄養が不足しているのではないかと拙者には見えた。

今回の出張では食事がちょっとばかしつらかった。いつも他の連中と同じ皿から直接食事をするのである。スープも1つのお椀から皆それぞれ直接スプーンで食べた。ご飯も前の客が残していったご飯に盛り足されたご飯を食べなくてはいけなかった。現に盛り足しているところを拙者は目撃した。生の草が多種皿にのって出てくるのであるが、これも多分、前の客が残したモノに盛り足されて出てきたのではないかと拙者は推測する。一応、拙者は予防摂取をしているが、肝炎とかってこうして移るのだろうなと思った。